20050203 リハビリ
「ひぎっ……!」
それに気付いたとき、私の口から漏れたのは、悲鳴とも苦痛の叫びともとれるような、そんな滑稽な叫びだった。
見ている。
古ぼけたその一枚の絵の中から、男は確かに私を見ている。
「……」
声が出ない。目を逸らしたいのに逸らせない。逃げ出したい、だけど脚が動かない。
膝の力が抜けてがくがくと身体が揺れているのに、私の身体はまるで絵の男に絡め取られたかのように倒れることすら許されず、視線を逸らすことすらままならない。
怖い。
そう、この絵が怖いのだ。
一見、何の変哲もない人物画だと思った。
技巧は確かに優れていたが、さほど特記すべきところがあるわけではない。長年絵の取材に携わってきた私はもっと優れた絵画をいくらでも見たことがあったし、それらと比べれば目の前の絵は明らかに見劣りしているように思われた。
これが半年以上捜し求めてきた『桐生マコト』作の絵画だということに、落胆さえ感じていたのだ。先ほどまでの私は。
絵には、一人の男が描かれていた。男は漁師だった。
浅黒く焼けた腕、初老といえる年代を感じさせる顔に刻まれた深い皺と、体力の衰えを嘆くかのように顰められた眉。瞳はそれを認めようとせぬかのように生気を放ち、全体から受ける印象とその瞳のアンバランスさが一種危うさを感じさせる。
そこまで観察して、私はふと違和感を覚えたのだ。
おかしい。
この絵は、いや、この絵の男はどこかがおかしい。
その違和感の正体に気付いたとき、私の背中を悪寒が走りぬけた。
この絵の男は、存在感がありすぎるのだ。
絵画、特に写実的人物画というものは、モチーフの内面を描くことが重要になる。
ただ外面上を似せて描くだけではただの模写であって、写実とは言わないのだ。それゆえ写実的絵画を旨とする芸術家たちは、ただ表面上だけではなく内面を描こうと腐心する。それが人物画であれば、モデルとなる人物の性格はもとより生い立ちや経験までをも絵の中に塗り込めようとするかのごとく描く。
優れた人物画というものは、総じてそのように少なからずモチーフの内面が描かれているものなのだ。
だが、この絵は、それが行き過ぎていた。
決して巧緻とは言えぬ筆致、写実としては3流といってもいいこの絵に描かれている男はだが、まるで気配すら感じ取れるのではないかと思えるほどに存在感があった。
いや、そんな生易しいものではない。
絵中の男は、まさしく生きていた。
絵の中という空間で、男は確かに生活し、たまたま私の前に姿を現したのだ。私が少しでも目を離せば、男はこのまま漁に出るのだろう、いや、ひょっとすると漁から戻ってきたところなのかもしれない。どちらにせよ私が見ているからこそこの男は静止しているだけであって、私が少しでも目を逸らせば普段の生活に戻っていくのだ、瞳に風貌とは不釣合いな生気を浮かべたまま……
思わずそう信じてしまいそうなほどに、このときの私は絵中の男を確かな存在として感じ取っていた。そしてそれに気付き、愕然としたのだ。
技巧の問題ではない。モチーフの存在感という視点からみて、この絵は明らかに突出している。これほどまでに写実画において存在感を描くことのできる芸術家を私は知らない。
冷え込んでいた私の心は、徐々に昂揚していった。
これは明らかに傑作だった。これほどの絵を遺しながらも生前は評価されず、それどころか作者の人物像すら知られていない現状。この絵を発表すれば、どれほどの衝撃が画壇に走るか。
私は私の目を信じる。やはり私の思っていた通り、『桐生マコト』は天才だったのだ。
『死んでしまえ……』
「え?」
昂揚し興奮する私にまるで冷や水を被せるかのように。
その“声”は、私の目から入り、確かに脳に伝わった。
『死んでしまえ……』
「なに? なんなの?」
声が視覚から伝わってくる。
その異様な感覚に、私は混乱し、私一人しかいないはずの薄暗い部屋の中、気付けば声を発していた。
『死んでしまえ……』
そして私は気付く。
『死んで……』
声は――
『しまえ』
目の前のこの絵から、見えた。
「ひぎっ……!」
それに気付いたとき、私の口から漏れたのは、悲鳴とも苦痛の叫びともとれるような、そんな滑稽な叫びだった。
「メッセージ性」などというものではない。これは呪いだ。明確な呪詛の意図をもって記された、呪いなのだ。
『死んでしまえ』
「い、いや……」
絵の中の男、その圧倒的な存在感。
殺される。このままこの場にいたら、きっと私は殺される。
『死んでしまえ』
「いや……」
絵に殺される。
絵に殺される。
絵に殺される。
いや――
『死んでしまえ』
『桐生マコト』に、私はきっと、殺される!
「嫌ああぁぁーーーっ!!」
それからのことは、実はよく覚えていない。
気付けば私はその部屋を飛び出し、8駅離れた自分の部屋で震えていた。どこをどうやって部屋まで帰ったのかすらまったく覚えていない。
そして、それが――
私と『桐生マコト』が遺した絵画との、初めての出会いだった。
つづく?